400万人が待ってるよ♪

「あなたと過ごした日々は今でも忘れない。そして、これからも私の胸の中にあるよ。産まれて来てくれてありがとう。」

今日で3回忌。生きてれば20歳になるのかなぁ。
1986年4月6日。新しい命が誕生した。私たちに初めて授かった命。
  名前は「祐一」
私たちは本当に可愛がっていました。祐一はのびのびと育っていきました。そして、幼稚園に通うまで成長していき、幼稚園ではおとなしい性格ではあったが、親しみやすい子でしたよ。と幼稚園の先生が言っていました。初めての合唱会では、家でも練習をして一生懸命でした。それを見ていた私たちに元気を与えてくれました。祐一は何をするにも一生懸命で負けず嫌いの性格でもありました。


そして、小学校に入学。小学校では初めてのことだらけで、国語や算数などの勉強や図工などを楽しんでやっていました。
小学校の大きな行事。運動会。徒競走では2位を取って大泣きをしていました。泣いていた祐一にお父さんは優しく「祐一、1位を取るだけが運動会じゃないんだぞ。どれだけ頑張ったか、どれだけ一生懸命やったかなんだぞ。それをお前にはわかるか?」すると、祐一は「うん。」と答えました。私は祐一の正直な返事に嬉しくて涙が出てきました。それから、祐一はお父さんの仕事の帰りを待っては「お父さん、今から公園行って遊ぼう。」
毎日毎日遊んでいると、祐一はまた新しい遊びを覚えてしまいました。それは野球です。祐一のお父さんは甲子園に行ったこともあるくらいの実力者で、お父さんは嬉しくて嬉しくてたまらなかったのです。


そんな日が続き…ある日。祐一は少年野球チームに誘われたのです。祐一は嬉しそうな顔をしていたので、私たちも嬉しくなってきて、少年団に入れてあげたのです。
それからは試合がある日は夫婦で必ず応援に行っていました。

「6番サード佐藤祐一」

4年生から試合に出るほどみるみる成長していきました。6年生になるとお父さんと同じ、ショートというポジションになりました。「いつかお父さんを越えるんだ」という言葉が口癖でした。

月日は流れ中学生になり…。中学生では硬式というプロと同じボールを使った、クラブチームに入りました。
そして、ある日。祐一のチームは県大会の準決勝までやってきました。準決勝の相手は優勝候補でした。
祐一の打席になり、その第2球目でした。
   「バーン…」
   「…祐一!!」

祐一の頭にボールがあたったのです。祐一はその場に倒れ、救急車で近くの救急病院に行きました。
そして、レントゲンを取り先生に呼ばれ…。
「頭にボールが当たったのは何も問題ありませんでした…。しかし…。」

「…しかし……って先生!しかしって何ですか?」

「脊髄……変性…」


「……先生…今なんて?」
「脊髄小脳変性症。」
    ・
    ・
    ・
「それって治るんですよね?……先生!」
先生「・・・」


「何でうちの子なんですか?うちの子が何かしたんですか?」私はそういってお医者さんにあたり、泣き崩れました。私は以前にそういう病気の名前を聞いたことがありました…。ことの重大さが少しわかっていました。

「今日のところは大丈夫ですから、家に帰っていいですよ。」

祐一は頭にボールが当たっても元気になっていました。
私たちは神様を恨みました。「なんであんなに元気な祐一が病気にかかるんですか?病気って何ですか?病気は祐一を選んだんですか?」祐一が寝た後でも、私たちは朝まで泣いていました。 
幸治が「俺たちがくよくよしててもダメだ。祐一が気付いたらなおさらだ。俺たちが元気出さなきゃ…。」

「そうねぇ。」と私はうなずきました。 


そして、祐一は高校を入学したと同時に、大好きだった野球をやめたのです。そう、祐一の体は段々いうことがきかなくなってきたのです。 
その異変は祐一自身が1番早く知り、お父さんにもお母さんにも相談ができませんでした。そして、ついに祐一は朝、1人で起きれなくなってしまったのです。 

次の日、私と幸治は相談をして、祐一に全てを打ち明けることにしました。 
「知ってたよ。脊髄小脳変性症でしょ?覚悟はしてたけど、本当だったんだね。」

私は涙が止まりませんでした。
私は祐一と幸治に「これからの少ない時間を3人でずっと……」私はまた涙が溢れだし、最後まで言えませんでした。  
そして……2月25日。 
  
   享年18歳。 

祐一は18歳という若さでこの世を去ったのです。


「もう少しで卒業できたのにね。ちょっと早いけど、   卒業おめでとう。」


祐一は私たちにたくさんの思い出を残していってくれました。私たちは一生忘れません。 



「祐一……
  今までありがとう。」


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