きっとみなさんが経験するであろう事。全国の何万人もの受験生の中のひとりの話です。
2006年…高校三年の俺は大学受験が近づいてきていた。俺の高校は国立大学を毎年70人位のそれなりの公立高校。部活をし、バスケばかりでろくに勉強していないどこにでもいる高校生。部活の引退でようやく始めるころだった… 父「今日からちょっと母さん入院するから」 俺、妹「わかった」 (また入院か…) 母は病気などするような人ではなかったが俺が高校に入るあたりから検査というかたちで入院するという事が増えていった。それでも家にはしょっちゅう帰って来てたし三人兄弟の俺達は不安になったりすることはなかった。 しかしいつしか高校三年になるあたりからだんだん帰れる回数が減っていっていた。そして親父は病院に毎日通うようになり…妹はそれに合わせて友達と遊ぶ事がすくなくなり…兄貴は大学が他県であるにも関わらずしょっちゅう家には帰ってきて、妹の塾や俺の駅までの送り迎えを手伝っていた。 親父は「受験だからお前は自分の事だけ考えてろな」と笑顔で言っていた…
そして俺は…………………2007年受験失敗した
力がないのにプライドが高く、勉強不足としかいいようがなかった…いや、そう思いたかった。 親父は浪人反対していた。「どうしようもない大学なんて行きたくない」という俺のかって過ぎる考えだったが…しかし地元では受験に関する情報も少ない上に知り合いのたくさんいる地元では自分の性格ではダメだと理解していた。
卒業式の日、駅まで親父が送ってくれ車から下りようとしたとき 父「東京に予備校の寮があるらしいから、帰ったら調べてみな」 と普通の顔をしていった。反対だったはずの親父だが…俺の心の中を見破っているようだった…。
金銭的な面での負担はすごいはずだ。入院費や浪人するとなればかなりの額。消費者金融の契約書類を子供には見せないようにし、それを全く触れずにいった親父………。電車の中、こぼれそうになる涙をこらえて、歯を食いしばり俺は小さな声で「ありがとう」と言った…。
2007年4月…予備校の寮へ出発する日、半年ぶりに帰宅が許された母が一緒に車に乗り親父と共に見送ってくれた。
寮の生活が始まり俺の浪人生活が始まった
それは同時に大学が始まるということを意味している。俺には彼女がいる。東京の大学に通い始める彼女が…。受験生にとって彼氏彼女という存在はいけないと思う。特に片方が大学生という場合は。 彼女は大学生。遊びたくないはずがない。しかし俺は遊んでばかりはいられない。しかし彼女は大学生でも短大生だった。 彼女は沖縄で生まれ、関東の俺の生まれた県に来た。彼女は沖縄への飛行機に何度も乗るうちに空港に憧れ那覇空港で働くという目標を持っていた。俺もテレビ局で働きたいという目標を持っていた…。 それはつまり俺が浪人したらまとも一緒にいるのは一年…、実際には就活等考えると一年は確実にない。 俺達には堪えられなくてなんども二人で会うことがあった。 いつか終わりの来てしまう恋愛を…限られた時間を惜しむように何度も…。 心の中で父や母さんに悪いと思いながら…。。
そして10月、自分の部屋で勉強しているときに親父から電話がかかって来た 父「ちょっといろいろはなすことがあるから家に帰って来て」 嫌な予感がした…。
生まれて始めての家族会議が始まった…
父「まぁ、気付いているとは思うんだけど…お母さんの事」 兄「…」 俺「…」 妹「…」
父「お母さん…悪性のガンなんだ」
兄「そっか…」
俺「今は母さんの容態っていうか…どんな状況なの…?」
父「はっきりいうとあんまりいい状態ではない」
妹「…」
兄「…」
俺「そっか…」
父「それで…来週お母さんの誕生日だからみんなでお母さんのところ行こう」
俺達は兄弟三人でプレゼントを買うことを決め早速次の日に買いに出掛け、買った。ちょっとかわいらしいポンチョをふんぱつして。
母さんの誕生日になり四人で車にのり病室に入った。 半年ぶりに見た母さんの様子は抗がん剤の副作用で髪の毛は抜け、顔半分は麻痺を起こしていてただれていた。少し太っていた母さんのからだはがりがりにやせて足は俺の腕よりも細くなっていた。 これがガンなのだ。と、俺に訴えているようだった。俺の受験の苦しみなんて屁でもない、辛くくるしくたたかっているんだ。 久しぶりに…2年ぶりに家族全員が集まった。親父がひっそり買ってきたとっておきのシフォンケーキを開けロウソクを立てて…母さんがゆっくり一本いっぽん火を消した…。 甘いものが好きだった母さんだがさすがに食べることは出来ないため、病室ににある椅子をテーブルにして俺達四人でケーキを食べた。
その後プレゼントの袋に包まれたポンチョを母さんにあげた。
俺「てか病室暖かいからいらなくない?」
兄「たしかに…」
妹「温度考えてなかったね(笑)」 一同「ハハハ(笑)」
それが最後の家族の笑いだった。 母さんがしゃべりにくそうに俺に「今はふたりで頑張るときだね」 といってくれた。
だが、俺は彼女の事もあり「絶対W大受かるから!」とは言えなかった…。
弱っていく母さんをみて何もできない自分が悔しかった
家族は不思議なものであまりお互いの弱い部分を見せたりしなかった。妹はひとり娘だから可愛がられていたしきっとたくさん泣いたはずなのに泣くところを一度も見せなかった。 兄貴も親父の力になろうとしそういうそぶりを見せなかった。
俺もみんなの前で泣くとかはしなかったが……………… 俺は東京へ戻って来た時…気が狂っていた 部屋には戻らず夜の深夜の新宿、渋谷、池袋…飲まずくわずでフラフラしていた…
そこを助けてくれたのは彼女だった…連絡が取れないのを心配して、捜しまわっていてくれていた
そこから猛勉強が始まった。 でも長くは続かなかった…
センター試験の4日前……朝早く親父から電話がかかって来ていた…。寝ぼけながら俺は着信履歴から親父に電話をかけた
父「もしもし?寝てた?」
俺「今おきたとこー。なに?」
父「母さん亡くなったから明日にお通夜、明後日に告別式あるから今日には帰って来てね」 おやじは俺に落ち込んでるようなそぶりはみせないようにしていたのだろう。 俺「え?」
何がなんだかわからなかった。聞き間違いかと思った。 実感がまるでなくて心の中で「冗談であってほしい」というのでぐちゃぐちゃになっていた。
とりあえず彼女に連絡をとって会って、伝えた。
彼女「え?え?え!?本当に。。。? 俺「こんなことを嘘でいわないよ」 彼女「そっか………大丈夫…?」
俺「大丈夫だよ」
俺「なんか現実なのかわからなくなる。」
ドラマでよくある『いまだに信じられない。』本当にそのとうりだよ…
でも帰って家にとめてある異様な車の数が『いつも』と違うことを示していた………
親戚に頭を下げ…畳みの部屋へ行くと真っ白のふとんがひとつ…顔に白い布が一枚。
正座をして座ったときのあまりにひんやりとした感覚を足がこうらせておくためのドライアイスの存在を感じ取った。そして母さんのそばに座り、身体にかけてある毛布に手をおいたときの温度はもう人ではない…生きている人ではないということを強くものがたっていた。。。 寝ているのはいつもそばにいた…ご飯を作ってくれた…一緒に買い物へ…風邪をひいたときには優しく看病してくれた母さんなのに……どうしてこんなにも冷たい?
いつもそばにいたはずの母さん…今はそばにいるのに…遠くへいってしまったようで………。
お通夜の前日の夜、親戚も帰り、4人だけのリビング。もう5つはいらない食卓の椅子。使う人がいない化粧道具。もう見る人がいない通信販売のファション雑誌。丁寧に植えられているたくさんの花。みんな…あらゆるものが母さんとの思いでを思い出させる…。
そんな中親父が母さんとの出会いや出来事を話してくれた。 そういう話はほとんどきいたことなくて驚いた事もたくさんあった。何となくうれしかった… お通夜も告別式も終わり火葬場も終わってすべて一段落ついた…。
静かになりみんな寝静まった頃ひとり母さんにお線香をあげてみる。もう話せないし触れない…料理も食べれない。
きっとほとんどの人が経験するであろうこと。家族が減るということはすごく悲しい…。
自殺ということを本気で考えた。この死の悲しみや受験の苦しみから逃げ出したくて…
でも…家族と母さんを悲しませる事はしたくなかった。
大変なときに好き勝手させてもらっていた俺。そんなことは出来なかった……………。
受験生でさらに浪人してる人はわかるだろうが正直浪人は辛い。 一年間やりたい事は何もできない。勉強するしかない。俺が母さんにしてあげれること。
2月に入り受験が始まった。
ひとつ、ふたつと…受験を消化し4つめの受験が終わり、その帰り道。
大都会の東京の高層ビルが立ち並ぶ中ひとり足をとめてみる。
青い空が広がっていた。
あまりに大きく広くて高い空が、自分を小さくしていた。
自分の悩みや苦しみいろんなことがあまりに小さくちっぽけだと思った。つい笑ってしまうくらいに…
小さくつぶやく……
「大丈夫。やっていける。少しさみしいけど、なんとかやっていけそうだよ。」
きっと見守っててくれてる
活躍の場をみつけたポンチョ着て
実は今は(書いているとき)まだ2月某日…です。 W大学は終わっていません。目の前に見せてあげるのはできないけど…絶対に持っていきます。
それでは……行ってきます
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